SkyDreamの日記

果たして空を飛べるだろうか?

皇居東御苑

宮殿の参観が無事終わり、せっかくなので隣接する「東御苑」も見ることにしました。希望者には許可証の札がもらえ、引き続きそのまま入場出来ます。

 

東御苑には誰でも入ることが出来ます。入門出来るのは大手門・平川門・北桔橋門(きたはねばしもん)の三箇所です。特に予約は必要ありませんが、門で「札」をもらって入ります。

 

この「東御苑」は、もともと旧江戸城本丸、二の丸、三の丸があった場所で、特に本丸地区には、天守台に加え、大奥、中奥、表の三つの空間に分かれと将軍をはじめとする多くの幕府役人や女性たちの生活の場でした。現在は皇居付属庭園として整備されています。

 

百人番所

大手門から同心番所を経てすぐ先にあります。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所です。長さは50mを超えるそうです。

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ここには鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の四組が交代で詰めていました。

 

大芝

 本丸地区の江戸城住居跡には大芝生があり、その周辺には草木の生えた散策路があります。

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堀に近い木立の小道を進むと、こんな所に?と思われるような場所に、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた、あの有名な「松の大廊下跡」がありました。

 

天守

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ここにあった天守は、寛永十五年(1638)、三代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、金の鯱をのせた五層の立派な天守閣でしたが、明暦三年(1657)の火災で焼け落ちます。

 

しかし、四代将軍綱吉の叔父である保科正之が、「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきである」と提言したことにより、以後天守閣は再建されることはありませんでした。

保科 正之(ほしな まさゆき)は、徳川家康の孫にあたり、江戸幕府第三代将軍徳川家光の異母弟で、家光と四代将軍家綱を輔佐した名君です。会津松平家の初代藩主となりました。

現在このあたりは大芝生となっていますが、当時天守台の前には広大な江戸城住居が広がっていました。

 

日本庭園周辺

二の丸地区には日本庭園や雑木林があります。
木々が色づき、すすきが日の光を浴びて黄金色に輝いていました。

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ここは都心のオアシス。お昼時にはこのあたりのビジネスマンがあちこちのベンチで憩っていました。

 

大手門
大手町方面への出入り口です。

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 真っすぐ進んで、右に折れると10分程で東京駅に着きます。

 

この日は宮殿と東御苑を巡り、所要時間は約二時間半程でした。

(万歩計で1万5千歩、約9~10km位)

 

保科 正之

先日行った会津旅行でも、鶴ヶ城や日新館で初代会津藩主の保科 正之の名を良く見かけました。彼は1668年(寛文八年)会津家訓十五箇条を制定しました。曰く「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と。彼は名君ではありましたが、後に幕末の藩主・松平容保がこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戊辰戦争で最後まで薩長軍(新政府軍)と戦い敗北。鶴ヶ城は炎上、若き白虎隊十九名が飯盛山で自決することになりました・・。